【JR九州】415系電車(動画)
九州では、415系電車がまだまだ活躍しています。
2021年10月に鹿児島本線久留米駅で、415系電車の到着・発車風景を動画に収めました。
https://youtu.be/HH-uUIl4fm8
国鉄形電車ならではの「音」をお楽しみください。
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九州では、415系電車がまだまだ活躍しています。
2021年10月に鹿児島本線久留米駅で、415系電車の到着・発車風景を動画に収めました。
https://youtu.be/HH-uUIl4fm8
国鉄形電車ならではの「音」をお楽しみください。
神戸新聞NEXTの本日(2021年10月9日)付け記事で、神戸電鉄粟生線の大村~樫山間にある「大谷踏切道」が取り上げられています。
家なし、道なし、行く先は雑木林…謎の踏切、何のため設置? 小野の神鉄粟生線
警報機と遮断機が付いた第一種踏切ですが、渡った先には道らしき道がなく、踏切を渡ってもその先に行けない。路上観察学の用語を使うなら、さながら「純粋踏切」だそうです。Googleストリートビューで見てみると、確かに向こう側はどこにも行けそうにありません。ただ地図で見ると、踏切を渡った先にはボーイスカウトのキャンプ場があるので、全く利用者がいない踏切と言うわけでもなさそうです。
一度時間を見つけて、見に行ってみたい踏切です。
間もなく開業100周年を迎える、阪急今津線の西宮北口~阪神国道間ですが、JR東海道本線跨線橋以南は、20径間の上路式プレートガーダー式高架橋になっています。
特に下に川が流れている訳でもないこの区間がプレートガーダー式の高架橋となっているのは、跨線橋から北側(西宮北口方)の高架橋がコンクリートラーメン構造である事を見ると、技術的には非常に特異です。
この鋼桁ですが、近年の塗り替えで製造銘板が転写シールにより再現されており、非常に見やすくなっています。
銘板によると、この桁の製造は明治42年(1909年)、大阪の汽車製造合資會社製で、今津線の開業(大正15年、1926年)と比べて17年も前になります。1909年と言うと、箕面有馬電気軌道の開業(明治43年、1910年)よりも前ですから、将来的な新線の建設に向けて予め桁を準備していたとは考えられません。むしろ今津線の建設当時に既にあった桁を有効活用して、建設費を抑えようという意図があった可能性が高いように考えられます。
そこで今から3年ほど前、この鋼桁の出自について、いくつか仮説を立てて調べてみたことがあります。
① 鉄道院・鉄道省からの、不要桁の払い下げ
全国で新線の建設が進められ、鉄道草創期に架設された橋梁の架け替えなどで転用先には困らなかったはずの当時、製作後十数年という新しい桁を払い下げる可能性は、ちょっと考えにくいです。
② 阪鶴鉄道 池田~大阪間支線からの転用
猪名川を渡るのに丁度位の橋梁長から可能性を考えましたが、計画は建設が具体化するまでに至っていなかったはずですし、阪鶴鉄道が国有化される年の製作ですから、これも否定できると思われます。
③ 神戸本線 武庫川橋梁からの転用
これも橋梁長が近いのと、大正年間に武庫川の河川改修工事が行われた事から発想しましたが、神戸線の計画が決まるまでに当該区間の河川改修工事は完成していたようなので、これも否定できそうです。
④ 旧中津川への架設予定桁の転用
現在の淀川(新淀川)は1898年(明治31年)から1910年(明治43年)に掛けて開削されましたが、その前には、今の十三付近に中津川という淀川の支流が流れていました(参考資料1)
すなわち、1907年に箕面有馬電気軌道が設立され、宝塚線の工事が始まった頃にはまだ残っていた可能性がある中津川に架設するための桁が発注された。しかし新淀川開削の進捗で架設前に中津川は廃川となり、現在の淀川橋梁が架けられた。その時既に発注をキャンセルできなかったため、やむを得ず社内で保管し、有効活用するため今津線に転用したと言う仮説です。
参考資料に掲載された1909年(明治42年)の地形図を見ると、淀川橋梁付近の河道は既に新淀川に移っていますが、すぐ下流にはまだ旧河道も残っています。橋梁長は近いように見えますが、時期的にはこの説が成り立つのかどうか、なかなか微妙なところです。
⑤ 宝塚本線新淀川橋梁の架け替えで発生した桁が転用された
推理は以下の通り
なお参考資料2 『歴史的鋼橋集覧』によると、新淀川橋梁の橋長668mに対しトラス桁は100ft×10連=340mで、一方今津線高架橋は250m程度ですから、転用には充分です。むしろ余りますので、その分は後の宝塚本線の大型車両対応化工事などに転用された可能性があるのではないかと思います。
その後図書館で借りた「京阪神急行電鉄五十年史」(参考資料4)で関連の記述を探したところ、私の仮説⑤を直接的に裏付ける文言こそありませんでしたが、否定する記述も無い事が分かりました。以下、資料を元にした考察を述べます。
① 建設当時の宝塚線新淀川橋梁について
『鋼製の橋梁で、脚数は四十一、橋桁はプレートガーダーを用い、その径間は十五・二米、総数四十二径間とし』(P38~39)とありますので、当初は全てプレートガーダーで構成されており、現在の中央部のトラス桁は後の改築工事で架設された事が分かります。
② 淀川改修増補工事について
大正6年(1917年)の台風豪雨により新淀川の堤防が決壊したため、翌大正7年(1918年)より淀川改修増補工事が行われました(参考資料5) 上流の木津川の流量が想定を超えていたためで、それが後の神戸線橋梁の建設、宝塚線橋梁の改築に当たって、中央部にトラス桁を採用する要因となったと想像できます。
③ 新淀川橋梁の改築について
『大正十一年十一月一日、先ず新淀川の新鉄橋架橋工事に着工、十三年二月六日に完成した。この直後、旧鉄橋の改修工事を開始して、高架複々線の建設準備を進めた』(P40)とあり、先に神戸線の橋梁を建設して、宝塚線を一旦そちらに切り替え、宝塚線の橋梁の改築を行った事が分かります。
④ 神戸線建設当時の財政状況について
『阪神線の建設は、工費四〇〇万円を以て全線の工事を完成する予定であったが、戦時中のために諸材料が騰貴し、到底、予算通りに進捗することは困難であったにも拘わらず、ひたすら開通を急ぐことに決定して、先ず用地の買収を開始した。』(P18)とあります。
第一次世界大戦の影響ですが、神戸線開通に先だって、日本はいわゆる戦後恐慌に突入しましたから、阪神急行電鉄の財政状態もかなり悪化していたことが想像できます。現今津南線の建設が計画されていたのはその真っ只中ですから、新淀川橋梁から大量に発生する橋桁に着目し、それを高架線建設に利用しようという発想が出たのは、ごく自然なことだと思います。
以上から、仮説⑤は、ほぼ歴史的事実と相違ないのではないかと考える次第です。何しろ、わざわざシールで銘板を作り直すと言う手間を掛けている事から見て、阪急電鉄にとっては特別な由緒のある桁なのでしょう。
【参考資料】
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